昭和49年03月24日 特別奉修委員



 今朝から、桜井先生の奥さんがお届けされるのに、昨日の御霊祭に、光橋先生が祓詞を読みました。はあもうちょいとえらい一生懸命でもう、高い声でねまちっとこう品良う、初めはそろうっと言うちから、だんだん大きくなって行く様なね、要領があるんですよ。一番初めから大きな声でまあそうでした。けれどもね桜井先生が頂かれたのはね、そういう先生が祓詞を奏上しとっ時に、誰かがね御神前をこうやって、祓い清めておる所を御心眼に頂かれた。
 もうどんなに例えばそりゃむごうやってもです。そういう働きがなからなかったら、なあにもならんですからね。いわゆるもう形式化してしまったらもう駄目です。 私は今あのー皆さんの事をお願いさせてもらいよったら、大変格好の良いなんちゅうでしょうかね。泉水の先辺りに置く足の長い灯篭ですかね。なんて言うでしょうかあの足が長い灯篭。頂いたんですけれども、形だけは素晴らしい。そして大体はあれは光を灯すのであってね。周囲を明るくするの灯篭というのは。
 だからその両方の用がなされなければ、本当の事じゃないと云う事。皆さんの場合、例えば足が長いというのは、もう繁々と合楽に足を運びなさると云う事じゃなかろうかとこう思うですね。けれども、皆さんの信心に光が無いと言う訳でもないでしょうけれども、もう兎に角何時もは何か一生懸命のものが無からなければ、光にならないと言う事ですね。いわゆるマンネリになってしまうと云う事。例えばよその先生方が祓詞なんかなさったりすると読み方も上手でもあるしね。
 けれども神様に向かって斬新なものが交流しない。そういう意味でです。ただ言葉だけではなくて、本当に祓う働きと云う物がなからなければ、祓詞の値打ちは無かです。桜井先生が頂かれたという、光橋先生のそのまあ上手ではない。声は高い大きいけども一生懸命だから、つい思わずあんなに大きい声になって来るのであろうが、それはだからあんまり格好は良くないけれども、実際の神様の方の祓い清めが出来ておると言う事を頂いたと、今朝から言われます。
 それと同じような事がね私共の信心も長年段々信心しよると、色んな事で詳しゅうなって、形だけはピシャリ出来る訳ですが。所が形がピシャリ出来て来たら光の方が伴わない。内容が伴わって来ないと云う事になると、それはもう信心頂いておる値打ちがない。是はまあ私の信心を先程も日田の方達にお話ししとったんですけども、私の信心の値打ちはもう、日に日にさらだと言う事だと思うんですよ。
 その証拠を私は何時も私が自分で説かせて頂く、あのご理解を自分で自分が聞き取れておりますもん。これは何十年間これは本当です。そりゃなるほどお話の中には同じ話もいくらも出て来ます。もう何十遍言うたか分からん。だから今日の御理解の中でも、私が引き上げて帰って来た話やら弟の戦死の話やら、もう何十回聞いて頂いたか分からん。何百回かもしらん。
 けれども、私はもうさらな気持ち出来よるけん、新なものとして皆さんにも入って行くでしょうが。だから新なものが出て来る事の為に、どういう信心修行させて頂いたら良いかと云う事がね。何時も心に掛けられなければ、言うならば灯篭の様に格好だけは良いけれども、光を伴わないと云う事であっては、灯篭の本当の値打ちがない。と云う事になるんですね。格好悪てもよい。そりゃ要領が良く無くて良いけれども、本当に神様に交流するもの、そう云う物を一つ頂きたいですね。
   どうぞ。